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勧進帳

Kanjincho

天保十一年(1840)三月 作詞:三代目 並木五瓶 作曲:四代目 杵屋六三郎


” 旅の衣は篠懸の ──

 露けき袖やしをるらん ”



歌詞

[謡ガガリ] 旅の衣は篠懸の 旅の衣は篠懸の 露けき袖やしをるらん

〈本調子〉 時しも頃は如月の きさらぎの十日の夜 月の都を立ち出でて これやこの 往くもかえるも別れては  知るも知らぬも逢坂の 山かくす 霞ぞ春はゆかしける 波路はるかに行く舟の 海津の浦に着きにけり 

いざ通らんと旅衣 関のこなたに立ちかかる 

夫れ山伏といっぱ 役の優婆塞の行義を受け 即身即仏の本体を 此処にて打ちとめ給わんこと  明王の照覧はかりがとう 熊野権現の 御罰当たらんこと たちどころに於いて疑いあるべからず  おん阿昆羅吽欠と 数珠さらさらとおし揉んだり 

元より勧進帳のあらばこそ 笈の内より往来の 巻物一巻取出だし 勧進帳と名付けつつ  高らかにこそ読み上げけれ (天も響けと読み上げたり 感心してぞ見えにける) 

士卒が運ぶ広台に 白綾袴一とかさね 加賀絹あまた取り揃え 御前へこそは直しけれ 

こは嬉しやと山伏も しずしず立って歩まれけり 

すわや我が君怪しむるは 一期の浮沈ここなりと おのおの後へ立ちかえる 

金剛杖をおっ取って さんざんに打擲す 通れとこそは罵りぬ  かたがたは何故に かほど賤しき強力に 太刀かたなを抜きたもうは 目垂れ顔のふるまい  臆病のいたりかと 皆山伏は 打刀抜きかけて 勇みかかれる有様は  いかなる天魔鬼神も恐れつびょうぞ見えにける 

士卒を引き連れ関守は 門の内へぞ入りにける 

ついに泣かぬ弁慶も 一期の涙ぞ殊勝なる 判官御手を取りたまい 

鎧にそいし袖枕 かた敷く隙も波の上 ある時は舟に浮かび 風波に身を任せ  またある時は山脊の 馬蹄も見えぬ雪の中に 海少しあり夕浪の 立ち来る音や須磨明石  とかく三とせの程もなくなく痛わしやと 萎れかかりし鬼あざみ 霜に露おく斗りなり  互いに袖を引き連れて いざさせたまえの折柄に

〈二上り〉 実に実に是も心得たり 人の情けの盃を 受けて心をとどむとかや 今は昔の語り草  あら恥ずかしの我が心 一度見えし女さえ 迷いの道の関超えて 今またここに超えかねる  人目の関のやるせなや アア悟られぬこそ浮き世なれ

〈本調子〉 面白や山水に おもしろや山水に 盃を浮かべては 流に引かるる曲水の  手先ずさえぎる袖ふれて いざや舞を舞おうよ 

元より弁慶は三塔の遊僧 舞延年の時の和歌 是なる山水の 落ちて巌に響くこそ 鳴るは滝の水  鳴るは滝の水 鳴るは滝の水 日は照るとも 絶えずとうたり 疾く疾く立てや手束弓の  心ゆるすな関守の人々 いとま申してさらばよとて 笈をおっとり肩に打ちかけ  虎の尾を履み毒蛇の口を 遁れたるここちして 陸奥の国へぞ下りける


解説

天保11年(1840)に、能の「安宅」をベースにこれに山伏問答を加えた舞踊曲で杵屋六三郎が作曲した松羽目ものです。勧進帳といえば歌舞伎十八番の一つであり洋楽で言えばベートーベンの第九のようにいつの時代にも人気がある作品です。

勧進帳とは寺社の建築や改修に寄進を募るための趣意書で、巻物にして僧や山伏が読んで聞かせるものです。 兄頼朝の執拗に追われた義経が弁慶や四天王らとともに山伏姿に身をやつし奥州に落ちる途中、安宅の関にて先導の弁慶の機知により通過しかけたところ、強力(山伏に従う従者)姿の義経がとがめられ弁慶が義経に似ているといわれた強力を杖で折檻するのを見た関守富樫が感動し通してやるという筋です。

これは歌舞伎初の松羽目ものといわれ、当時、能は武士の独占であり、歌舞伎は低く見られていたものを敢えてその形式を歌舞伎の導入してレベルアップを図ったわけです。

いくつかの山場がありますが、「すはやわが君怪しむるは」が最大のクライマックスであり、弁慶が大立ち回りになるところです。三味線の「滝流し」は歌舞伎のストーリーとは無関係ですが、能の感じをとり入れて正治郎が明治になって作曲したものです。長唄だけで演奏する場合前後の文脈がつながりませんが曲としての価値が高く評価され人気の高い曲といえます。


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