靭猿

Utsubo zaru

明治二年(1869)

作詞:稲垣抱節

作曲:二代目 杵屋勝三郎



歌詞

〈本調子〉 

それ弓矢の始まりは 神代の時より用ひしとかや聞きつらん 矢入を靱と名づけしは 

その中うつろにして 外に毛皮をかけたるは 粟の穂なぞに似たればとて 空穂とは言ひ伝ふ[謡ガカリ]

あら不思議やな 怪石裂けて石卵生じ 忽ち化して 猿となる事は 人を教のたとへ草 

秋吹く風に笛の音は 草刈る童子も何処かと たよりし先はそれならで 妻を恋しと鹿笛に 

隔てられたる谷川へ 散りし紅葉も時雨に濡れて 解けて嬉しき雪の暮 面白や


〈二上り〉 

はや新玉の春ぞ来る ぞめき囃せし花の中 花の筵に弾く三味線の 

その糸桜 いとひなく 殿も家来も ほのめく顔の よい緋桜の向島 土手の錦も花の空 

竹屋竹屋 と呼ぶ舟に 乗り合はせたる猿猿廻し こなたの岸へと 着きにけり


〈本調子〉 

太郎冠者あるか はア御前に候 あれに背負うた一物を いづくへ伴ふなるか 

尋ねて参り候へと 仰せに冠者は心得て 

なうなう 猿曳止まれとこそ その猿いづくへ曳き候や と言ひければ 

賤の男は はァッと手をつかえ やつがれはこの辺りに住む猿曳にて候が 

今日もお旦那廻りを致さうと存じまする 心急げばやつがれは そろりそろりと参らうか 

やれ待たうぞ猿曳 この方は隠れもない大名でおりやる 今日は春野の遊びにて 弓矢をかたげ 

狩りに参ったるが あれに持たせたる 靱をないない毛皮にしやうと 思ふ折から好い猿に逢うた

その猿の皮を申し受けたしと 聞いて驚く猿曳が 

猿の皮をお好みとな そもやそも生きてゐる物の皮が なにとて上げらるるで御座らうぞ 

此の猿をもちまして 一と日一と日の命を送ります これを上げましては 明日より何の手業なし 

こればかりは御免しと 詫びるに聴かぬ大名の 威を張り詰めし強弓の 一と矢に射てと立ちかかる 

あア申し待って下さりませ 猿の皮が御用ならば 御手をおろし射殺されましては 皮に疵がつき 

ここに猿の一撃と申しまして 一撃にて命の失せる所が御座るによって 殺して進ぜませう 

太郎冠者も心得て 早う早うと勧めけり また有るまじき殿の御意 畜類なれどもよう聴けよ 

子猿の時より飼ひ育て 今更憂目を見ることは 不憫な事ぞ 今撃つ程に 草葉の蔭にても 

恨みと思うて くるるなよ あれ是非なしと振上ぐる鞭の下 廻る子猿のいぢらしき 

あれあれ今のをご覧なされましたか 撃ち殺さるる鞭とは知らいで 船漕ぐ真似をしまするぞ 

なに殺さるると知らいで 芸をするとはふびんなことぞ 

やい太郎冠者 撃つなと言へ 撃つなと言へ 連れて帰れと申せい 

と聞いて喜ぶ猿曳が ただ有難しと伏をがみ この上の御礼に 猿に一と舞まはせませうと 声張上げ 


〈二上り〉 

えエい 猿が参って此方の御知行 まさるめでたき能仕る 

猿は山王まさるめでたき目出度さよ 天より宝が降り下って 増生すれば 

綾や千反錦や千反 唐織物よ 地には黄金の 花が咲き候 

実に豊かなる時なれや げにゆたかなる時なれや さらば我等は御暇と 元来し道へ帰らんと 

花を見捨てて帰る雁 空も高根の富士筑波 名に負ふ隅田の春の夕 

景色をここに止めけり 景色をここに止めけり


解説

長唄「靭猿」は、明治維新前後の長唄の中では比較的新しい時期にあたる明治2年(1869)2世勝三郎の作曲です。

内容は「猿もの」といわれるものの一つで、狂言の靭猿からの歌詞をそのまま用いています。


矢を入れる容器の靭(うつぼ)といいます。これに張る毛皮にしようと、通りがかった猿引の猿の皮を欲した大名(といっても田舎大名で、たいしたことはないのですが)と、これを断る猿引き(今でいうフリーランスなので猿を殺されたら生活出来なくなります)、さらに猿の愛らしい仕草をわかりやすい狂言のセリフで仕上げた作品です。


まず「それ弓矢の始まり」から「空穂(うつぼ)という」までで靭の由来を述べ、「あら不思議やな」で孫悟空の故事の由来、さらに「秋吹く風」から「面白や」まではストーリーの本筋とは関係ない秋から春への景色を述べ、「太郎冠者あるか」からは、狂言そのままで極めて分かりやすい部分です。そして、最後はめでたし、めでたしで終わるという筋書きです。

「ああもし、待って下さりませ」の猿引きの部分は、極めて描写的であり聴く人の心を揺さぶります。


狂言の方では、猿が踊るのにつられて大名が一緒に踊りに加わるという趣向になっていますが、長唄では、猿の踊りに引き込まれる大名の持つ滑稽さよりも、猿引きの心情というものにスポットを当てた独自の解釈で作り変えており、今でいう「動物愛護」という視点からも皆さん共感できる物と思われます。

時は、まさに明治維新の直後で、徳川幕府の諸大名は、廃藩置県で江戸を去りそれぞれ地元に帰ってしまい、能や三味線音楽のスポンサーがいなくなってしまいました。

ことに、能楽は武士の式楽であったため、能楽師は厳しい状況に置かれました。

長唄でも、南部候など有力なスポンサーがいなくなりました。

しかも、新政府は「色恋もの」を禁止したため、この時代に作られた長唄を見ますと、「橋弁慶」をはじめ、「安達ケ原」「綱館」といったようにどれもかなりヘビーな堅い作品ばかりです。


いずれにも共通しているのは謡曲を並行輸入している点ですが、長唄の「靭猿」が能に極めて近い狂言をベースにしてこと、さらに人情ものであることなどが、こうした時代的要求にマッチしたものと思われます。