綱館

Tsuna yakata

明治三年(1870)

作曲:三代目 杵屋勘五郎



歌詞

〈本調子〉 

さる程に 渡辺の源次綱は 九條羅生門にて 

鬼神の腕を切り取りつつ 武勇を天下に輝かせり

さりながら かかる悪鬼は七日の内に 必ず仇をなすなりと 

陰陽の博士 清明が勘文に任せつつ 

綱は七日の物忌みして 仁王経を読誦なし 門戸を閉じてぞ ゐたりける 

既に東寺羅生門の 鬼神の腕を切り取りしこと これひとへに 君の御威徳ならずや 

然るに清明が勘文に従ひ あら気詰まりの物忌みやな 

かかる所へ津の国の 渡辺の里よりも 訪ねて伯母のきた時雨 紅葉の笠も名にめでて 

錦をかざす故郷の 老いの力や杖つきの 乃字の姿をも 

うしとは言はで引かれつる綱が館に着きにけり 

門の外面に佇みて 

如何に綱 津の国の伯母が遙々参りたり この門開き候へ 疾くあけ召されい 

内には綱の声高く 

遙々との御出でなれど 仔細あって物忌みなれば 門の内へはかなはず候 

なに門の内へはかなはぬとな 

是非に及ばず候 

あら曲もなき御事やな 和殿が幼きその時は みづから抱き育てつつ 

九夏三伏の暑き日は 扇の風にて凌がせつ 

玄冬素雪の寒き夜は 衾を重ね暖めて 和殿を綱と言はせしこと 

アァ皆みづからが恩ならずや 

恩を知らぬは人ならず エエ汝は邪慳者かなと 声を上げてぞ泣き給ふ 

さしもに猛き渡辺も 飽くまで伯母に口説かれて 

是非なく門を押開き 奥の一と間に請じける 

伯母を敬ひ頭を下げ さても只今は 不思議の失礼仕って候 

先ず御酒一献きこし召し その後御曲舞を所望申し候 

目出度き折なれば 舞はうずるにて候 

御酒の機嫌をかりそめに 差す手引く手の末広や あら面白の山廻り


〈二上り〉 

まづ筑紫には彦の山 讃岐に松山降り積む雪の白峰 河内に葛城 名に大峰 

丹波丹後の境なる 鬼住む山と聞こえしは 名も恐ろしき雲の奥 [舞の合方] なつかしや 


〈本調子〉 

いやとよ綱 鬼神の腕を切り取られし武勇のほど およそ天下に隠れなし 

してその腕はいづれに在りや 

即ちこれにと唐櫃の 蓋うち開けて 伯母の前にぞ直しける 

その時伯母は彼の腕を ためつ すがめつ しけじけと 眺め眺めて居たりしが 

次第次第に 面色変わり かの腕を 取るよと見えしが忽ちに 鬼神となって飛び上がり 

破風を蹴破り現れ出で あたりを睨みし有様は 身の毛もよだつ ばかりなり 

いかに綱 我こそ茨木童子なり 我が腕を取り返さんその為に これ迄来ると知らざるや 

綱は怒りて早足を踏み 斬らんとすれども 虚空に在り 如何にかなして討ち取るべしと 

思へど次第に黒雲おほひ 鬼神の姿は消え失せければ 

彼の清明が勘文に 背きしことの口惜しさよ 

なほ時を得て討ち取るべしと 勇み立ったる武勇の程 感ぜぬ者こそなかりけれ


解説

これは、いわゆる大薩摩ものといわれるもので大薩摩を多用した明治3年(1870)三世杵屋勘五郎の作曲で、能「羅生門」の後日譚として書かれたものです。

また、これは120年余り前の物を新曲として作ったといわれています。


「源頼光」という武士の家臣であった「渡辺の綱」が羅生門に住む鬼の片腕を切り取りますが、この曲ではその後のお話が中心となっています。

九条羅生門は、平安京の南門にあり、別名羅城門ともいい、当時は寂しい郊外で荒廃していたので鬼の住むところといわれていました。


大江山の酒呑童子に仕える茨木の童子は、鬼が7日以内に腕を取り戻しにくるということで「阿部晴明」という陰陽師のトップにあたる人に相談します。

その彼が、吉凶を占った「勘文」というものにより謹慎をすることになるのですが、天皇の威徳にかけて鬼退治をして腕を切り取ったのに、勘文に従うというのは「何の気詰まりの物忌か」つまり、なんとも気分のふさいだことだという不満を表しています。


「九夏三伏」とは夏の90日(旬)の意で、暑くて伏せるのは仕方ないこと。

「玄冬素雪」とは玄とは黒、素とは白の意で冬を示しています。

「破風を蹴破り」の破風というのは、屋根の切妻にある合掌形の装飾版のことで、これを蹴破ったことから以来渡辺党の人たちは建物を東屋作りとし、破風を作らないといわれています。


曲の中に曲舞(くせまい)が出てきますが、これは白拍子系の芸能で、後期のものを特に「幸若舞」といいますが、この曲のテーマの鎌倉時代にはまだ存在していないという矛盾も指摘されています。


また、伯母に化けた鬼が出てくるところからは浄瑠璃の「文弥節」になっています。

伯母が訪ねるあたりからホラー物のような感じで、背中がぞくっとする感じがします。


この当時の時代的背景を考えますと、新しい明治政府が文明開化の旗印をもとに西欧の文化を取り入れたことから邦楽に対する風当たりが強くなり、このため「廓もの」をはじめとする色物作品は摘発の対象となりました。


一方、能楽のスポンサーもいなくなるという能楽衰退への危機感からこれを大衆化すること、一方長唄を含め三味線音楽を能楽とドッキングすることで高尚化を図り、そこに活路を見出したわけです。

それが吾妻能の能楽師日吉吉左衛門とニ世勝三郎のコラボで興行を打って成功したことでもあるわけです。